松下幸之助が9歳のとき、大阪で単身働いていた父から「幸之助のいい働き口が見つかった」という手紙が母のもとに届いた。そこで幸之助は、小学4年修了を目前にして、丁稚奉公に出ることになった。
 晩秋の和歌山県・紀ノ川駅で、汽車に乗りこむ幸之助に母は目に涙を浮かべて、「からだに気をつけてな。先方のご主人にかわいがってもらうんやで」とくり返し言い聞かせたという。
 最初の奉公先は、大阪市南区八幡筋(現在の中央区西心斎橋2丁目)にあった宮田火鉢店。ここでの仕事は、朝早く起きて、ふき掃除をし、子守りの合間に火鉢を磨くことであった。仕事はさほどつらいものではなかったが、ただ、夜、寝床に入ると、幼いこともあって、母を思い泣きじゃくる日が続いた。
 小僧としての給料は、毎月1日と15日に5銭ずつ。それまで郷里で母に1厘銭をもらい、近所の駄菓子屋でアメ玉2つを買うのが楽しみだった松下幸之助にとって、この5銭の白銅貨は大きな喜びであった。が、その喜びも束の間、宮田火鉢店は幸之助が入ってからわずか3カ月で、店をたたむことになった。
 そこで親方の知り合いの五代自転車商会に移った。場所は、船場堺筋淡路町(現在の中央区淡路町2丁目)。ここでの仕事は、朝晩のふき掃除、陳列商品の手入れ、自転車の修理の手伝いなどであった。幸之助は、五代夫婦や先輩から「幸吉」「幸吉とん」と呼ばれた。船場は大阪の代表的な商売の町であったから、松下幸之助も他の小僧たちと同じように、挨拶の仕方や頭の下げ方など、商売の仕方を一から厳しくしつけられた。「そのことが、自分のその後の人生に大いに役立った。だから奉公時代は、自分にとって“船場学校”といえるものであった」と松下幸之助は後年語っている。

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