松下幸之助がむめの夫人と結婚したのは、大正4年9月4日のことである。幸之助が20歳、むめの夫人が19歳であった。
 大正2年に母が他界すると、松下幸之助の身寄りは、結婚している姉2人になってしまった。その姉の1人(長姉)から先祖のまつりをするためにも早く一家を構えるようにと、結婚話が持ち込まれるようになる。年齢からいうとまだ早いと思っていたが、大阪電灯で働いていた大正3年、もともと体が弱かったうえに、無理がたたって肺尖カタルにかかり、その養生の必要からも、しかるべき人があれば結婚しようと決心した。
 そこで大正4年5月、姉のすすめる井植むめのと見合いをする。当時の見合いは、往来ですれ違うようなかたちで行われるのが一般的で、松下幸之助も姉夫婦と、松島(現在の大阪市西区千代崎)の八千代座という芝居小屋の前で相手を待っていた。しかし、近くの人たちが「見合いや、見合いや」と小声でささやくのを聞いた幸之助は、すっかり上がってしまって、ほとんど後ろ姿しか見なかったという。それでも、義兄の「きめとけ、きめとけ。そう悪くはないぞ」の言葉で、結婚を決意、ささやかな新婚生活が始まった。
 松下幸之助が大阪電灯を辞め独立してからは、むめの夫人は病気がちであった幸之助を助け、ともに仕事に当たってきた。住み込み店員制度があって、2人は店員と起居をともにしていたが、むめの夫人は若い従業員の母親代わりを務め、3度の食事はもちろん、身の回り一切の世話をすると同時に、実際の会社の経理業務などを担当した。それは、松下電器本社が大開町から門真へ移った昭和8年まで続いた。そのような意味で、むめの夫人は、「もう1人の創業者」といえるのかもしれない。平成5年9月5日、97歳で没。むめの夫人の著書として『難儀もまた楽し』(PHP研究所)がある。

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